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ある日突然にどーる
ある日突然にどーる
Auteur: 本島幸久

第一話 亜人の靴

Auteur: 本島幸久
last update Date de publication: 2025-12-05 09:32:52

……ゆるゆると目を開ければ、辺りは昏くて白い。

夜空に綺麗な満月が浮かんでいる。

頭上で重なり合う枝葉をサワサワと風が鳴らし、隙間から月光が零れ落ちてくる。

あたしはその大きな樹の根元に仰向けに寝転がっていた。草の匂いがする。

(草原…?)

そのくさむらは横たわるあたしの体をスッポリ隠す程に深く、葉の一枚一枚も何だか大きい。一体ここはどこだろう?あたしの生活圏内にこんなザ・自然な場所、あったっけ?どこか山奥にでも来たのだったか……

「…って、え?てか、今までどこにいたんだっけ…?

何してたんだっけ……あ?え…?

……あたし、誰?」

全身から力が抜ける。ゾワゾワと嫌なモノが背中から這い上がってきて、寒気と吐き気で体が震え出す。

(分からない…記憶喪失っ…?)

ガチガチと鳴り出した歯を止めようと、あたしは頬に両手を当てた。

ペコン。

予想していなかった音がして、頬に手を当てたまま固まる。爪が頬骨に当たったのか…?いや、そこまで硬い感触ではない。しかし覚えている皮膚の弾力とはまるで違う。あたしは両手を頬から離して目の前に掲げた。

月明かりに白く光る細い指もてのひらも透き通る様に綺麗…けれど、明らかに不自然だった。ツルンとしてシワが全く無いのだ。指紋すら無い。指の関節はあるが、まるで切れ込みが入ったかの様にくっきりしている。そして手首の関節は──

あたしは悲鳴を上げた。

………………………………………

よく晴れて、日差しの眩しい朝である。

僕─間嶋ましま久作きゅうさくは眠い目を擦りながら、ヨロヨロと急坂の歩道を上がっていた。

ブロオオォ……

すぐ脇の車道をバスが追い抜いていく。車内には僕と同年代の男女が多く乗っていた。見送って溜息をつく。

東京都南西部・世田谷区の麗青れいじょう。この辺りは地域全体が丘になっており、駅前を過ぎるとすぐに上り坂になる。庭付きの高級住宅ばかりが並んでいて、土地が物理的にも価格的にも高い。都心から離れて落ち着いた世田谷区内でも、特に有名なセレブの街である。

僕は日差しを避けて豪邸の塀沿い、庭の樹々が枝を張り出している木陰をトボトボと歩く。垂れ下がった葉っぱが不意に頭を掠めて、ビクッと首を竦めるのが我ながら情けない。

季節は本来薫風爽やかな五月─しかし朝の満員電車に一時間半揺られてきて弱っている身には、この坂と強い日差し、蒸せるアスファルトの熱気はハード過ぎる。そもそも僕は身長はそこそこあるもののヒョロヒョロとした体型の、インドア派の眼鏡男子──体力には些かの自信も無い。日焼けにも弱くて紫外線を浴びると肌がすぐ真っ赤になる。こうやって日陰を選んで歩かないと、熱中症ですぐ倒れる自信がある。

そんなヨレヨレの僕の横をまたバスが追い抜いていく。行き先は〈麗青学苑れいじょうがくえん大学〉──僕がこの春入学した私立大学だ。

間もなく始まる一限目の講義に出る学生達は皆、その駅からのバスに乗っている。なのに同じ一限を目指す僕が乗らずに歩いている理由はただ一つ─体力より更に財力に自信が無い。場所柄もあり学費も高額な麗青学苑は各地のセレブが集まる名門校として知られ、幼稚園、小学校から中学、高校、大学まで繋がる一貫校だ。しかし大学は別に一般受験でも入学できる。僕もその別ルート組で、我が家は学費の金額に家族揃って卒倒しかけた一般サラリーマン家庭なのである。

幸い入学金は両親が懸けてくれていた学資保険で何とか賄えたが、授業料を捻出する為に僕はアルバイトを掛け持ちしている。塾の講師に家庭教師、更にコンビニの店員…当然大学近くに一人暮らしをする余裕など無く、隣の県にある実家から片道二時間を掛けて通っているのだ。定期代も洒落にならず、可能な限り節約しなくては──エスカレーターに乗ってきた御子息・御息女と同じバスには乗れない。

四台のバスに抜かれながら二十分程でようやく正門に辿り着く。周りではバスから降りた学生達が笑い合っている。男子学生も当然僕より遥かに小綺麗な格好なのだが、女子学生のお洒落度はハンパない。

ポニーテールを揺らすあのコは初夏を先取るノースリーブの白いワンピース。ショートカットの先輩は颯爽とパンツスーツを着こなし、隣のロングヘアーの彼女の白い脚がタイトなミニスカートからスラリと伸びている。揃いも揃って『最新・新緑のお洒落女子大生コーデ』のウェブサイトに紹介されていそうな華やかさだ。〈麗青の御令嬢〉と言えばこの地域のブランドなのである。

そんなキラキラしたお嬢様達の流れに混じって、つい二ヶ月前まで男子校に通っていた僕は目のやり場に困り、ひたすら俯いて歩く。

目と耳に掛かる長髪は寝癖と満員電車の洗礼でボサボサ、黒いTシャツの上に羽織った水色の長袖シャツも紺のデニムも安物でどうにもいたたまれないのだが、実際には誰も僕の事など見ていないだろう。要らぬ自意識に背中を丸め、安物の黒いリュックを提げて草臥くたびれたスニーカーを見つめながら、僕は洒落た煉瓦が敷き詰められたキャンパスをノロノロと進んでいった……

ふと前方を見ると、僕の目指す左奥の校舎─二号棟の方向に、やはり俯いて歩く人物がいる。

小柄で、白いパーカーを着てフードを被っている。背後からは顔も髪型も見えず、緑のロングスカートで女性だと分かるだけだ。

(あのコか…)

それでも相手が誰か分かったのは、その雰囲気が他の女子学生とはあまりに違っているからだ。小脇にベージュのトートバッグを抱えて、僕と同じ引きずる様な重い足取りで賑やかなお嬢様達の隙間を一人ゆっくりと歩く姿は、まるで華やかな熱帯魚の水槽に紛れ込んだ色の無いクラゲ──

─言えた義理じゃないけどさ……

苦笑いをしていると、その女性が不意に左横を向いて顔が少し見えた。

思った通り、この春僕と共に入学した文芸学部・国文学科の同級生─結月ゆづき沙苗さなえだ。

大学主催のオリエンテーションで学科毎に履修科目の説明を受けている時、彼女も同じ教室にいた。その時多くの学生達は、高校からの知り合い同士で固まって座っていた。離れた後ろの席にポツンと座っていたのは僕と沙苗だけだったので、自然と目に入ったのだ。自分と同じく大学からの入学組だろう─咄嗟にそう思った。

その髪型は調べたら切りっぱなしボブと言うらしいが所謂いわゆるオカッパ頭の黒髪で、パツッとカットされた前髪が眉まで隠している。その下の顔も化粧っ気が無く、服装も他の女子達より明らかに地味で目立たない。彼女は僕と同じ最後列の隣の長机で、俯いてメモを取っていた。

(このコも独りか……)

そう、僕はその時周囲から浮いている彼女の姿に、自分を重ねていた。

僕がこの麗青学苑大学の文芸学部を選んだのにはそれなりの理由がある。

そもそも文学部ではなく、··学部なのだ。ここには僕達の国文学科や英文学科の様な文学だけでなく、映画や演劇、音楽、美術等の芸術分野を学べる学科がある。それぞれの学科には専門学校の様に実際に作品を創る実習もあるが、歴史や考察、構造解析等を学ぶ研究科目も多く設定されている。そしてそんな多様な講義を、学部・学科を越えて履修できるのだ。美術系の大学やクリエイターの専門学校ならいざ知らず、普通の四年制大学では非常に珍しい興味深いスタイルの学び舎だった。他に思い付くのは有名な日本大学の芸術学部くらいだろうか…。

僕はボンヤリとだが小説家、あるいは映画やドラマの脚本家や漫画の原作者─〈···〉をやりたいと思っている。高校でも文芸サークルでミステリもどきを書いたり、映画部の脚本を頼まれたりしていた。しかしまだまだ勉強が足りないのは自分で分かっていて、だから高い学費にも関わらずここを選んだのである。

だが入学してから分かったのは、そんな僕の様な動機で入った学生は圧倒的に少ないという事──文芸学部は他の法学部や経済学部、教育学部に比べて、高校から進学したセレブが大半を占めていたのだ。確かにここで学べる多くの科目が一般企業への就職にはあまり関係ない。だから文芸学部に集まる学生は二種類に分かれる。

大らかに好きな事を学んでいても将来の心配が無いセレブか。

ちょっと変わった仕事に就きたい僕の様なヤツか…。

しかしその割合が想像を超えて偏っていて、殆どが前者だったのである。かつて京の都の貴族が文化を育ててきたのと同じだ。そしてその文芸学部の中でも国文学科は七対三の割合で女子の人数の方が多く、結果、僕はみやびなお嬢様方の専用車両に迷い込んだ文芸オタクという、場違い極まりない存在となっていた。入学早々この上なく肩身が狭い…。

それでもあの太宰治の様に『選ばれし者の恍惚』があったなら、そんな状況にも耐えられるのかもしれない。孤独を孤高に昇華できるのかもしれない。しかし自分の才能や可能性を信じきれていない僕には、不安しか無かった。

僕は本当にここに来て良かったのだろうか…。

ここに居て良いのだろうか……

そして沙苗も孤独な席にいる。彼女も周囲に馴染めず、ここに来た事を後悔し始めているのではないか?そう思った時、彼女は顔を上げて、前方で必修科目について説明している教官の方を見た。

『以上が一、二年生の必修科目となります。これらを落とすと三年生になれず、専攻のゼミを選べません。様々な講義を受けられるのが本校の特色ではありますが、まずは寄り道せずに確実に必修を押さえてください。

何か質問はありますか?』

その教官の問い掛けに沙苗は一瞬左手を挙げかけて、しかし思い直したのか顔の前で軽く拳を握る様に止めた。そして小声で呟く。

『寄り道したいのに…』

彼女の横顔には決意があった。

その前を見つめた真っすぐな目に、自分がここで何が出来るかを探る好奇心の光を見た。

僕は直感的に··の可能性を感じた。もしかしたら沙苗も僕と同じ様に、何か目標を持って入学したのではないか?

だからこそ孤立しているのではないか?

もしそうなら──

(彼女とはトモダチになれるかもしれない…)

だがそもそもが人見知りのコミュ障、しかも男子校上がりの僕に、初対面の女子に声をかける度胸はない。沙苗も、そして僕も、その場では結局誰とも話せずに終わった。

あれから一ヶ月─僕は挨拶するようになった男子学生は何人かいるが、女子学生とはまだ誰とも話せていない。勿論沙苗とも…ただ名簿で彼女の名前と、新潟の高校出身でこの春上京したばかりである事を確認しただけである。

しかし、これから僕が二号棟の教室で受ける〈音楽構造分析〉を、沙苗も受講している事は知っていた。これは毎回選んだ曲を歌詞やメロディ、使われている楽器や時代背景等の様々な視点から考察するというモノで、クラシックからジャズ、ボサノヴァ、ロックやヘヴィメタル、果ては現代のJ−POP、ボカロまで幅広く取り上げる人気の講義であった。まさに沙苗が言うところの···である。

講義の内容はとても興味深い。けれど自分の現状を突き付けられる苦い時間でもあった。音楽構造分析は僕達文芸学部以外の学部でも履修可能な一般教養科目で、二百人入る大教室で受講していると、そろそろ他の新入生は高校上がりも大学デビューも学部を越えて馴染んできているのが見て取れる。男女問わず笑い合うグループが点在する中、相変わらず後ろの席でポツンと座っているのは、やっぱり僕と彼女だけだった……

──何故か二号棟脇の花壇をジッと見ている沙苗の横顔を見て、僕はハッとした。初めて遭った時より昏い目をしている気がする。あの時の決意の光が孤独の闇に侵されてしまったのだろうか?だとしたらそれは、話しかける事さえ出来ない僕のせいかもしれない。

僕だけが沙苗を認識しているかもしれないのに…。

もしかしたら、沙苗だけが僕を認識してくれているかもしれないのに…。

左横を向いていた沙苗が再び俯き、校舎の入口にやはり足を引きずる様にして入っていく。

今この目映まばゆいキャンパスを俯いて歩いているのは二人だけ──ズキン、と心臓むねが疼いた。

─今日こそ話しかけなくちゃっ…!

「ねえ」

沙苗を追いかけようと前のめりになっていた僕の足が止まる。立ち止まりキョロキョロと辺りを見回す僕を避けて、他の学生は校舎に吸い込まれていく。

(空耳…?)僕はしばらく首を捻っていたが、周りに人気ひとけが無くなっている事に気付いてハッとする。講義が始まるのだ。ここで遅刻したら何の為に二時間も費やして来たのか…僕は慌てて昇降口の段差に足を掛けた。

「ねえってば!」

空耳ではない。その声は花壇の花の中から聴こえてくる。だが咲いているのは白やピンクの日々草で葉の丈はせいぜい30センチ、人が隠れられる場所ではない。

そこで僕は閃く。(あ、猫?)『ねえ』ではなく『ニャア』?そう言えばさっき沙苗もこの辺りを見ていた気が…彼女も猫の鳴き声を聴いたのだろうか?僕は腰を屈め、恐る恐る花壇に近付いた。

ガサガサッ。

「うわっ?」

小さな影が花を掻き分ける様にして飛び出してきて、僕は思わずのけぞった。

だがそのシルエットは明らかに猫ではない。

それは、身長が葉の丈と同じくらいの··だった。

「なっ………」

僕は絶句して固まる。その少女があまりにも常識外れの容姿をしていたからだ。

と言っても怪物の様な怖ろしい顔などではなく、美しい少女である。栗色の巻毛に包まれた白い顔には大きなあおい瞳にツンとした可愛い鼻、小ぶりなピンクの唇がバランス良く乗っかっている。その整った顔立ちはヨーロッパの貴族の令嬢といった風情で、日本人離れ─いや····していた。

プロポーションも身長30センチで五頭身だし、何と言っても白く細い手首や肘といった関節部分が··になっている。

着ているのもキュッと絞られたウェストの下からフワリと広がった真っ白なドレス。お伽噺のお姫様の様だなと思ったら、実際に〈プリンセスライン〉という型のドレスだと後で知った。全体にレースの装飾が施され、膨らんだ半袖が愛らしく、一方で腰のリボンやブラウスの襟を飾るボタン、ショートブーツは黒で、それがアダルトなアクセントになっていた。

少女は清楚かつ艶やかな、美しい··だった。

(い、今喋ったのはこの人形…?いや……)

固まっていた僕は目の前の光景を無きモノにすべく、ヘラヘラと笑い出す。夢も妄想も『これは現実ではない』と認識できれば、コントロール出来ると言うではないか。『そんな馬鹿な』と笑い飛ばすのだ。

「ハ、ハハッ……」

「何笑ってんのよ、あんた馬鹿?」

「わあっ、やっぱり喋ってるーっ!」

「いいからあたしの話を聞きなさいっての。

何か食べ物ない?

お腹空いて死にそうなの〜!」

人形は自分の腹部を押さえて、切なそうな表情で訴えた。本当に白昼夢ではないのか…?あまりに斜め上な展開に完全に思考停止していた僕は、機械的に応える。

「……僕の弁当で良ければ……」

「ホント?やったあ!」

人形は満面の笑顔でガッツポーズをする。呆然としていた僕だったが──

ジリリリリリ……

「ああっ、一限始まっちゃったっ!」

動揺する僕をよそに人形は目の前で小躍りしている。二時間の通学時間と学費を無駄にする訳にはいかない。いかないが……

「早く早く〜お弁当〜っ♪」

(こんなの連れて教室行けるかあ〜っ!)

「こ、講義終わってからでもいいかな…?」

「え〜っ、そんなに待てる訳ないじゃん!何よ、期待持たせといて裏切る気?

サイテー!」

「いや、そんなつもりは…」

「嘘つき!嘘つき!嘘つき〜っ!」

「うわっ、お、大声出さないでっ……」

僕は慌ててその場にひざまずき、辺りを見回した。こんな所で人形相手に喧嘩しているのを他人に見られたら、通報されるか動画を撮られて拡散されるか─ただでさえ寂しい学生生活が完璧なボッチになる。

「と、とにかくこの中に入ってて……」

そう言って肩のリュックを下ろし、人形の腰を掴んで持ち上げようとしたのだが……

「キャアッ、何すんのエッチ!

お尻触んないでよっ!」

「ちっ、違っ、誤解だっ…!」

人形相手に痴漢─もう駄目だ。

「すぐお弁当あげるから、向こう行こう〜っ!」

僕はリュックに人形を入れて、涙目で二号棟を見やりながらキャンパスの奥へと走った──

………………………………………

僕が辿り着いたのは、キャンパス最奥の林の中だった。

学生同士なら陽当たりの良い中庭の所々に置かれたベンチや屋内の図書館、カフェテラス等で歓談も出来ようが、人形同伴となるとそうもいかない。そういう意味ではこの林はあまり人の来ない穴場で都合がいいのだ。

と言っても、鬱蒼とした密林で近寄り難いという訳ではない。確かにキャンパスの端ではあるが、周りの道はキチンと舗装されている。ただ林の周りには薔薇が植えてあり、その植え込みをすり抜けて林に入ろうとすると服をイバラに引っ掛けかねないのだ。お嬢様方にはチャレンジングなスポットだが、北側に池があり水面を渡る風と木陰が涼しい。講義の合間にブラついていてここを見付けた僕は、気に入って時々独りで訪れていた。

「ハァ…ハァ…」

急に走って息切れした僕は、池に背を向けて草の上に座り込んだ。そして改めて肩に掛けたリュックの中を覗くと、人形が目を輝かせて見上げている。

(うわっ、やっぱ現実っ…)

彼女は待ち切れない様子で小さな両手を揃えて差し出し、弁当をねだる。さっきはまだお願いベースだったが、今は気のせいか『お尻触ったのもこれで許してあげる』という小悪魔的な笑みを浮かべている。その表情も仕草も無性に可愛く、それが余計に目眩を誘う──

僕は大きく溜息をついてリュックを下ろし、弁当箱を取り出して目の前の草の上に置いた。何せセレブ御用達大学、学生食堂も普通より割高で、近所に安い定食屋などある訳もない。それで僕は入学早々から弁当を持って通学していた。と言っても大した中身ではない。母親が作ってくれる日もあるのだが、一限目がある今日─水曜日は朝六時過ぎには家を出なくてはならず、家人が起き出す前に自分で夕べの残り物を詰めてきた。

弁当箱の蓋を開けてやると、リュックから這い出した人形はその中身を覗き込む。

「何これ、肉じゃがしかおかずが入ってないじゃん!」

「しーっ、静かに食べて!」

不満の声を上げた人形を慌ててなだめ、周囲を見回す。何としても人形と話している現場は見られたくない。

僕の左手─林の東側は金網のフェンスで仕切られていて、その向こうは運動部のグラウンドになっている。サッカー部やラグビー部、野球部等のボールが飛び込む恐れがあるので、フェンスは高い所では15メートルを超す。しかし朝早くから活動している部は少ないらしく、見える範囲に人影は無い。

人がいると言えば池の一角だけである。そこは生物部が造った〈ビオトープ〉─生物の生息空間となっていて、水質と水温が調節され、様々な藻や水生植物、メダカやカエル等が生息していた。今もその観察の為に生物部の部員達が数名池の周りにいるが、念の為そちらに背を向けたし、僕達のいる位置からは距離もあって声も届くまい…。

「ねえ、箸大っき過ぎて持てないんだけど!」

「だから大声出すなって!横に小っちゃいフォークあるからっ……」

「あっ、これなら持てる♪」

やっと静かになった人形は弁当箱の前で正座し、デザート用の小さいフォークを漁師がもりを掴む様に右手で構え、目の前の人参の欠片かけらを突き刺して持ち上げた。そしてそれをニコニコと口に運ぶ。

そこに至って僕はようやく、ある当たり前の事実に気が付く。人形の口はちゃんと開く作りになっていたが──

「いただきまーすっ……うん、美味しっ………

え?あれ?何でっ…飲み込めないよ?

味は分かるのにっ…

食べれないじゃんーっ!」

(そりゃ人形だからなあ)と内心ツッコむ。人形は僕を見上げて物問いたげに口を開けているが、小さな歯と舌はあるものの喉から奥は塞がっていた。これでは構造的に飲み込める訳がない。そもそも人形が見えて喋れて味が分かるのがおかしいのであって、食べられないのは当然なのだが…。

人形自身もその矛盾に気が付いたのか、さっきまでの生意気さとは打って変わってすっかりしょげ返り、涙目になっている。どうやら人間の五感に当たる感覚だけがあるらしい。空腹なのに食べられないとなるとそれはさぞ辛かろう─急に彼女が可哀想になってきて、僕は真面目に考えを巡らせた。

(味は分かるんだもんな……あっ)

僕は人形の手からフォークを優しく取り上げて、それを使って弁当箱の隅を探る。

「ホラ、これ舐めてみて」

フォークの先には飴色の滴が絡まっていた。端っこに入れておいたデザートの、大学芋の蜜である。

涙目だった人形は僕が差し出したフォークの先に顔を近付けて、ペロリとその蜜を舐めた。途端に彼女の表情がパアッと明るくなる。

あんまぁ〜い!」

頬を染めてうっとりと笑った人形はやはり可愛らしく、僕も嬉しくなった。

「…つまりね、満腹感ってのは血液中のブドウ糖の量が増えた時に感じるモノなんだ。だから人間は砂糖が入った甘い物を食べると、満腹中枢が刺激されて満腹感と幸福感を得られる。キミはその甘みは感じられる訳だから、もしかしてって……

もしそれでダメだったら、満腹中枢を働かせるツボってのもあるんだよ。この耳たぶのとこにあるツボでね──」

僕は草の上に胡座をかいて得意げに語っていた。向かいでは木の根っこのこぶの上にチョコンと腰掛けた人形がニコニコと話を聞いている。大学芋の蜜をしばらく舐めて、何とか空腹感が収まったらしい。人形は最初出遭った時よりも随分穏やかな表情である。生意気な言動は空腹のせいだったのかもしれない。やはり糖質不足は人間から理性を奪うのだ─人形だけど。

彼女は僕の話が終わるのを待って口を開いた。

「ありがとう、お陰で落ち着いたわ。昨日の夜目が覚めてから何にも食べてなくて……

やっぱりさあ、お腹が空くと頭も働かないじゃない?これでやっと落ち着いて考えられるわ」

「え?考えるって、何を?」

「決まってるじゃない。

あたし元々ちゃんとした人間っぽいんだけど、自分が誰か、何で人形になったかも分かんなくて困ってるの。

どうしてこんな事になったのか、その理由が知りたいの。

あんた、意外と頭良さそうだしそこそこ機転も利くじゃん。手伝ってよ!」

どうやらこの人形が生意気なのは素だった様だ。偉そうに腰に手を当てた30センチの少女に指差されて、僕は中途半端な笑顔のまま凍り付いた。人形になってしまった人間?─非常識過ぎる。これが白昼夢や妄想でもマズいけれど、現実なのだから尚更ヤバい。もう関わらない方がいい。

─無理…

そう口から出そうになった時である。

「あたし、昨夜ゆうべ目が覚めたらこの近くの公園にいたの。満月の下、樹の根元に倒れててさ。自分が人間だった感覚はある。ホント、目が覚める直前まで普通に生活してた…生きてた実感があるの。でも他は何も覚えてなくて……

その時ね、近くで犬の鳴き声がしたの。犬かあ…と思ってて、ハッと気が付いた。怖くなって、慌ててその場を逃げ出したわ。犬がオモチャを咥えて遊んでる姿が頭に浮かんだんだもん。分かる?この木も草も、あたしから見たらジャングルの大自然だよ?犬だって猛獣だよ!

そんで道路に出たら、急にサイレンが聴こえてきてビクッてなった。見たら向こうの通りを救急車が走っていったの。とんでもなく大っきな、山みたいな黒い塊がゴオッて過ぎてって、地面もグラグラ揺れてっ……

あたし、悲鳴を上げて駆け出した。怖いよ、あたしの知らない世界だよっ!怖くて怖くて、泣きながら走って──

気が付いたらこの大学に辿り着いて、門の隙間から入って建物の陰に隠れたの。犬も来ないで、車も来ないでって…ギュッと目瞑って祈ってて…そしたらいつの間にか寝ちゃって……

朝になって、お腹空かせて目を覚ました。『夢じゃなかったんだ』ってまた泣きそうになって、惨めな気分で花壇に隠れてたら、大学生がたくさん来てさ。誰かに助けてもらおう、そう思った。思ったんだけど、たくさんの人が来て、楽しそうに話したりとかしてても、誰もあたしに気付いてくれない。誰もあたしを見てくれない。

自分から声をかけようと思ったけど…相手の顔が見えないんだよ。あたしこんなに小っちゃいから、下から見上げても見えないんだよ。顔が見えないから…どんな人か分からないから…また怖くなって……だってみんな巨人だもん!『何だこの人形、気持ち悪い』って踏んづけられて、殺されるかもしれないじゃんっ…!

…でも、あんたの顔は見えたの。

俯いて歩いてきてくれたから、顔が見えて、優しそうだなって思ったんだよ。

だから、声をかけたの。

ねえ、あんた名前は?」

「…間嶋久作……」

「あたしを助けて。

お願い、久作っ…!」

真面目な顔で一生懸命に語った人形は、最後にはまた涙ぐんでいた。僕は目を丸くして、その濡れた碧い瞳を見つめる。

普通に生きていた日常─世界が突然見知らぬモノになり、孤独の海に放り出された─それは今の僕が抱えている不安と同じではないのか。そんな彼女だけに僕が見えて、僕だけが彼女を見付けた…あの結月沙苗にも感じた共感シンパシーを、僕は人形に抱き始めていた。

だが──

「…つまりキミは人間だけど、突然目覚めたら人形になってて、あとは何も覚えてないって事だよね?失踪なら警察、記憶喪失なら病院だけど…僕が何をしてあげられるのか……」

僕は眉根を寄せて、腕組みをして黙り込んだ。人形は唇を噛む。今言った通り本来は一介の大学生ではなく、捜査機関や医療の出番だ。けれど人形の言い分を真面目に聞いてくれる奇特な公務員や医者が、世間にどのくらいいると言うのか─絶望的である。

その僕の表情を見て人形が力無くうなだれた、その時だった。ふと、彼女の背後の叢に赤い薔薇が一輪、花首から千切れて落ちているのが目に入る。林の周りに植えられている薔薇の花は今の時季が見頃で、赤だけでなく白や黄色、ピンクの花々が色とりどりに咲き競っていた。そんな華やかな集団から離れて、独りポツリと散った少女はな……

助けてあげたい─そう思った。

「面白いじゃあないかっ!」

突然響いた大声に、根っこに座っていた人形はビクッと慄えて慌てて飛び降りた。そのまま根っこの陰にしがみつく様に身を隠す。

その背後、林の南側の奥から人影が現れた。人形は怯えた表情だが、僕は呆れた様に声を上げた。

「…脅かさないでくださいよ、破一郎はいちろう先輩……」

そのゆっくりと近寄ってきた男性は190センチを超える長身で、スラッとした体型だが僕と違って程良い筋肉質だ。黒い詰襟の長袖シャツと黒いズボン、黒い革靴と黒尽くめの格好をしながら、何故か靴下だけが真っ赤である。

少し茶色い短髪でよく日焼けして、本来は鼻筋も通ったスポーツマンタイプの男前─しかしその表情は、三日月の様に目を細め口の両端を吊り上げてニマ〜ッと笑っている。まるで『不思議の国のアリス』のチェシャ猫の様に──

その精悍なチェシャ猫が僕の目前で振り返って片膝を付き、目線を下げて、こっちを凝視している人形の顔を覗き込んだ。

「やあやあ可愛いお嬢さん、私の名は希津水きづみ破一郎はいちろう

ふうむなるほど、確かに人形だが…所謂アンティークドールではないね。そんな古い造りじゃない。関節も多くて自在に動き、顔も小顔で現代的。肌だってこの透明感といいツヤといい、素材はレジンかな。フィギュアなんかでよく使われる合成樹脂さ。いやあ綺麗だね、可愛いね。おや頬が紅くなるのか、ううむこれは不思議だ…。

おっと怖れる事はない、私は常識というモノを疑っていてね。例えばホラ、こうやって膝の上に手を乗せる時、誰もが掌を下に向けるだろう?椅子に座る時だって肘掛けにそういう向きで腕を乗せて、端っこを手で掴む。掌を空に向けて肘掛けを使う人など見た事がない。常識だろう?

しかし腕には橈骨とうこつ尺骨しゃっこつという二本の骨が並んでいるのだが、掌を下に向けるとその骨はクロスして、周りの筋肉に負荷を掛ける。掌を空に向けて橈骨と尺骨が平行に並んだままにしておく方が、実は腕に負担を掛けない自然な姿勢なのだよ。ことほど左様に、常識というのはあっさりと覆る。

それに君、UMAユーマ─未確認生物というのがいるだろう?そうそう、多くの神話や伝説に出てきたり多数の目撃談もありながら、存在が確認されていない生物の事だね。

有名な巨大水棲獣ネッシーにモケーレ・ムベンベ、吸血獣チュパカブラや、海獣クラーケン。最近ではニンゲンなども知られるようになったね。日本にも河童に天狗に座敷童子…勿論ツチノコも忘れてはならない!

何?UMAなど実在しない?とんでもない!UMAの確認例は年々増えてきたのだよ。え?嘘なものか──

ゴリラもセイウチもイッカクもシーラカンスも、かつてはそんな常識外れな生物なんているはずがないと思われていたUMAだった。だってそうだろう?2メートルを超す毛むくじゃらの巨人や体長3メートルで牙を生やした海洋生物、北極に棲む海のユニコーンや白亜紀に絶滅したはずの古代魚がこの地球に存在するなんて、誰が信じると言うんだい。

もっと言えば微生物─細菌やウィルスだって、17世紀に顕微鏡が発明されるまではUMAと同じ、いるはずのない非常識な存在だったのだ。

そう『·なる知·』など幻想に過ぎない。何を信じ何を疑うかは時代と状況でいくらでも揺らぎ、常識も非常識もアップデートされ続ける。そんなフラフラしたモノを無条件で信じてはいけない。肝心なのは目前の事象を無心に捉えて、自分が納得できるかどうか──

だから最初、林の中からこの陰キャな間嶋久作の鬱々とした声が聴こえてきた時には、ボッチの新入生が遂に五月病に罹患し、人形を相手に独り言を言っていると思ったのだ。しかし木の陰から様子を伺えば、人形の声もするではないか。

何かのトリック?いや、この凡庸な間嶋久作には腹話術の特技も、人形型の特殊なスマートスピーカーを買う財力も、ましてや超能力や魔力の類いを身に付けていそうな主人公感も、何ひとつ無い事を私は知っている。

従って世間の常識からどんなに外れていようとも、お嬢さんは正真正銘の生きている人形─私はそう納得した。だから君を奇異な目で見たりしないので安心したまえ。

何、自分の謎を解明したい?

ならばこんな童貞の間嶋久作などではなく、私に相談するのがよろしかろう!」

そう言って満面の笑みで両手を大仰に広げて、チェシャ猫の演説は締め括られた。

人形は唖然としているが、僕は憮然とする。どさくさ紛れに散々ディスられ(特に最後のは致命傷)、暗澹たる気分になっていた。この人はいつもこうだ。突然現れては怪しげで偏った蘊蓄うんちくを好き勝手に撒き散らし、周囲を困惑させて煙に巻く…。

気が付けば人形は僕の傍まで来て、シャツを引っ張って物問いたげに見上げている。僕は渋々説明した。

「同じ文芸学部の三年生の先輩だよ。学科は映像学科だけど…」

その学年も学科も違う僕達が何故知り合いなのか─理由は単純である。彼は元々高校の先輩なのだ。当時映画部の部長だった破一郎先輩に物書きを目指していると偶々たまたま知られた僕は、映画部員でもないのに脚本を書かされていた。僕がこの大学を選んだのも先輩の影響だ。先輩も映画監督という〈表現者〉を目指して麗青ここに居る。大学で唯一の顔見知り以上の間柄と言っていい。

ただ二人が親密で平和な関係かというと、若干事情があって──

人形はしばらく黙っていた。きっと彼女はこの怪しげなチェシャ猫男を頼っていいのか、判断が付きかねているのだろう。当然である。

しかし僕は前向きになってきていた。今はそれが誰であれ、『人形になった人間』の存在を受け入れてくれる人物が増えた事の方が重要ではないか?頼れる先が無い八方塞がりの中、この破天荒な変人でもいないよりはマシな気がして、僕は少しホッとしたのだ。

「三人寄れば何とやらって言うし、これからどうしたらいいか一緒に考えてみようよ、ね?」

「うん……」人形の反応はまだ鈍い。

そこで僕は彼女が少しでも安心するよう、努めて明るく言った。

「それで、キミの事は何て呼ぼうか?元々の名前は覚えてないと思うけど…」

一瞬ハッとする人形。しかしすぐに腕組みをして考え込んだ。呼び名が無いのは不便だと自分でも思ったのだろう。

「そうだな、やはり球体関節人形と言えばドイツだからドイツ語の名前がいいかな。かの有名な人形作家のハンス・ベルメールがドイツ人でっ……」

「………」

勝手に命名権の行使を目論む破一郎先輩をスルーしつつ、目を閉じて俯いていた人形だったが、やがて顔を上げて呟いた。

「…···

「ドールって、〈人形〉の?」

「うん。だって、あたしにはちゃんとした名前があるはずだもん。今普通に〈リカ〉とか〈プリンプリン〉とか付けちゃったら、元の名前思い出せなくなるかもしれないでしょ?

だからあたしは、ただの人形。

でもちょっとだけ他の人形とは違うから、平仮名の〈どーる〉ね」

そう言って人形─どーるは僅かに微笑んだ。

(少し吹っ切れたかな?)

僕がそう思って、笑い返した瞬間──

ボォンッ!

「えっ?」「うわっ?」

突然大きな音が響き、僕達は思わず声を上げる。音がしたのは今いる林からは池を挟んだ対岸─30メートル程離れた広場にある建物の方からだった。

「〈文連ハウス〉から…?」

「文連ハウス?」

僕の言葉にどーるが反応する。それは横長の直方体の四階建ての建物で、白色のコンクリートの外壁に同じ大きさ、同じ形の窓が均等に並んでいた。

「文化部の部室が入ってる建物だよ。破一郎先輩が所属する映画研究会も勿論あるし、軽音楽部とか、美術部、写真部、ミステリー研究会─ああ、そこの池のビオトープを造った生物部もそうだ。文化部連合の建物だから文連ハウスさ」

キャンパス内の校舎は数年前に改修されて現代的で洒落たデザインになっているが、文連ハウスはひと昔前の中学や高校にある様なシンプルな箱型である。人目に付かない奥まった裏手にあるので改修も後回しなのか、だいぶ年季が入っている。他の校舎には設置されたエレベーターもまだ無かった。

見れば池の端の生物部の部員達がその文連ハウスを見上げ、二階や三階の窓から顔を出している学生もチラホラいる。運動部と同じくこの時間に活動している部は少なく、偶々用事があって早く部室に来ていた連中だろう。

「何の音?」

「何か爆発したのかな?」

「いやあ、軽音のドラムじゃね?」

窓から覗く連中と生物部がやり取りする大声がこちらまで聞こえる。これがガス臭いとか火や煙が上がっていればまた違ったのだろうが、彼らの口調に切迫感は無い。しかし──

「だ、誰か来てくれえーっ!

屋上から人が墜ちてきたあーっ!」

その場の空気が一瞬で凍った。叫び声は今は見えていない文連ハウスの裏側から聴こえてきた。

窓から顔を出していた学生達は慌てて引っ込み、生物部も建物の左端の入口に向かって走り出す。そちらから建物の中を通って裏口に回れるのだ。僕は現状帰宅部だが、文連ハウスは何度か見学したので知っていた。破一郎先輩に映研に遊びに来いと言われていたからだ。ただし行ったのは入口まで─中に入れば問答無用で入部させられそうな気がしていつも引き返していた。高校の時の様に、先輩の趣味であるゾンビ物や吸血鬼物の脚本をひたすら書かされるのはもう…。

「墜ちたってどういう事っ?」

立ち上がって呆然と文連ハウスを見ていた僕の足に、どーるがしがみついて訊いてくる。

「分からない、僕達も行ってみよう。先輩もっ……」

そう言って振り向くと既に破一郎先輩はいなかった。もう移動したのか?全く神出鬼没な人である。本家のチェシャ猫も自由に体を消せる異能の存在だったが…。

「ホラ、ボーッとしてないで、急げ久作っ!」

足元のどーるに上から目線で指示されるまま、僕はまたリュックに彼女を入れて駆け出した。

池の脇を走り抜けた時既に生物部は建物内に入っていたが、一人の男子部員だけが入口に入らず建物の右手─東側に回り込もうとしているのが見えた。そちらには林と運動場を仕切るフェンスがそのまま文連ハウスの向こうまで続いているが、フェンスと建物の間には2メートル程の隙間があって、そこからでも裏手に回れる。

僕は一瞬、どっちのルートで行こうか考えたが──

「うわあっ!」

「キャアッ!」

「119っ、救急車っ…!」

その声が文連ハウスの左寄りの裏手から聴こえた気がして、僕は左端の入口の方に向かった。

昇降口には生物部が脱ぎ捨てた靴が散らばっている。本来文連ハウスは廊下も部室の床もコンクリートで土足で入れるのだが、見れば池で作業していた生物部員達の靴は泥だらけで、脇に一つ、サンダルが片方だけ落ちていた。屋内に入る際には泥の付いた靴から、そのサンダルに履き替えるようにしているのだろう。

昇降口の段差を飛び越えて屋内に駆け込むと、正面は上階に続く折り返しの回り階段、右に廊下が伸びている。その廊下に沿ってそれぞれの部の部室が並んでいるのだが、今はそちらに用は無い。肝心の裏手に続く非常口は目の前の階段の奥にある。僕は入ったばかりの文連ハウスを最短距離で横断した。

非常口を出た先は建物沿いに十台ほどの車が置ける駐車場になっているが、非常口のすぐ横には車椅子のマークがあり、その次の二台目のスペースに白いワゴン車が停まっていた。今は他に停まっている車は無い。

建物にフロント部分を向けて駐められたそのワゴン車の周りに、先に来た学生達が集まっていた。運転席のドアが開いていて、その外の地面にへたり込んでいる男は運転手だろうか。顔面蒼白で頭上を見上げている。生物部の部員達も驚愕し動揺して、女子部員は泣きそうな顔で、全員同じ方向を見つめていた。

彼らの視線の先─ワゴン車の屋根の上に人がいる。頭を建物側にして、仰向けに倒れている。

乏しい全速力を出し切った僕はゼェゼェ言いながら、人だかりの後ろから背伸びをして覗き込んだ。

車上の人物の足が両方とも裸足なのが確認できる。膝の上まで捲れたスカート…女性だ。その裾から覗く白く細い足には車体にぶつけた時のモノだろうか、細かい傷が幾つもあり、特に右足は内側のくるぶしの下が腫れて、足の甲から側面にかけて紫色に内出血を起こしている。そのまま視線を上半身まで移す「え?」

その服装に見覚えがあった。

白いパーカーに緑のスカート──

それは、結月沙苗だった。

被っていたフードが外れて、乱れた黒髪のオカッパと血の気が失せた顔が見えている。目を閉じて口と鼻から血を流し、トートバッグを右手で抱え込む様にして胸に抱いていた。左手は車の横─運転席側にダラリと垂れている。その指先からもポタリ、ポタリと血が滴っていた。

「そんな…まさか、彼女が……」

「しっかりしろ!すぐ救急車来るからな!」

男子学生が呼びかける声に、僕は我に返る。彼女の顔の傍の数人の学生が声をかけていた。改めてよく見れば、沙苗の胸が上下している。まだ息がある!ワゴン車の屋根が凹んでいる。これがクッションになって衝撃を和らげてくれたのだ。思わず僕も駆け寄って叫ぶ。

「ゆ、結月さん、しっかりしてっ…大丈夫だからっ…!」

「君、このコ知ってるのか?」

「ハイっ、同じ国文科の一年生です!結月沙苗っ…一限でも一緒でっ……」

そこまで言って違和感を覚える。何故彼女がここにいる?僕はどーるの早弁の為に泣く泣く講義をサボったが、沙苗は僕より先に校舎に入っていったではないか…?

いや、今はそんな事はどうでもいい。あの時彼女に声をかけ損なった。あれがトモダチになれる最後のチャンスだった─などという事があってたまるか。

足を引きずる様に歩いていた沙苗の背中がフラッシュバックする。

「死ぬな結月さんっ…死ぬなあっ!」

周りの人達は僕と沙苗が相当親しい間柄だと思っただろう。何故そこまで必死になっているのか自分でも分からぬまま、僕は彼女に呼びかけ続けた。

··から飛び降りたんだっ…!」

不意に響いた頭上からの声に、その場の全員が一斉に見上げる。

屋上のワゴン車の真上に当たる位置で、数人の学生が鉄柵の向こうから地上を見下ろしていた。さっき部室の窓から顔を出していた連中だろう。

「女の子の靴が置いてあるっ…きっとそのコのだ!」

「そのコはたぶん、自分でっ……」

興奮気味に叫んでいた学生が、語尾を濁す。声高に『自殺した』と宣言するのも不謹慎だと思い至ったのだろう。

─自殺…?結月さんが……

確かに沙苗は裸足だ。彼女が屋上に靴を揃えて自ら飛び降りたというのか…?まさか…いや、でも……

その時、沙苗の体がビクンと動き、弾みで右手で抱えていたトートバッグが胸の上で傾いた。ボタンが外れて開いていたバッグの口から、ズルリと何かが滑り出る。それは白いハンカチに包まれていたが、一度ワゴン車の屋根の上で跳ねた際にそのハンカチは外れ、中身だけが側面の窓を伝ってトォンと地面に落ちた。

僕の足元に転がったのは、茶色いローファーの靴の片方だった。

………………………………………

やがて救急車が到着し、遅れてパトカーも三台やってきた。事故か自殺か分からない不審死なのだから警察の介入は不可欠だろう。沙苗が意識不明のまま救急車で運ばれていった後、ワゴン車の周りも屋上も立ち入り禁止となり、現場検証が始まった。

僕達は鑑識作業中のワゴン車の後ろに集められて、所轄の世田谷北署の刑事に事情聴取を受ける事になった。僕は沙苗の容態が気になって仕方無かったのだが、付き添って救急車に乗れる間柄ではない。

一方刑事達が最も気にしたのは、沙苗が墜ちる瞬間を見た者がいないかという事だ。キャンパスの要所要所に防犯カメラは設置してあるが、この文連ハウスの裏手には無い。何があったか確定するには目撃者の証言が必要だった。

しかし僕も含めたこの場のほぼ全員が『屋上から人が墜ちた』という言葉を聞いただけである。その声が無ければ誰も状況を把握できなかった。

だから真っ先に話を聞かれたのが、その叫び声を上げたワゴン車の運転手の男子学生だった。彼は教育学部の二年生で、英会話サークルの部員。朗読会に使う様々な原書を運ぶ為に、今日は車で来たと言う。

その場を仕切るのは四十代と思しき男性刑事─刑事課の沼と名乗った警部補だ。ワゴン車から少し離れた場所で始まった彼と運転手のやり取りを、僕は他の学生と共に証言の順番待ちをしつつ聞いていた。横では若い男性刑事─森野巡査が手帳にメモを取っている。

「では君は駐車場に入ってきて、障害者用スペースの隣に車を停めた。それでエンジンを切ろうとしたら、突然屋根にあの女の子が降ってきたと…」

「ハ、ハイ、物凄い音と振動がして、俺ビビってハンドル握ったまま固まっちゃってっ…天井見たら凹んでるし…これが夜なら心霊現象かと思って逃げてますよっ。

でもしばらく待って何も無くて、そっとドアを開けてみたら手がダランと落ちてきて血がっ…!それで慌てて外に出たら女の子が屋根に乗っかってて、ああ屋上から墜ちたんだって……!」

「それじゃあ、屋上から彼女が転落するのを直接見た訳じゃないんだね?」

興奮して話していた運転手を制して沼警部補が訊き返す。頬が痩けて鷲鼻でギョロリとした三白眼、市民の味方と言うよりむしろ悪役面である。長めの髪型は全体にウェーブが掛かっていて、前髪が垂れて右目が隠れている。口調は柔らかいが左目だけでジロリと相手を見据え、表情の変化をジッと観察している様だった。

警部補の言葉に一瞬ポカンとした運転手だったが、すぐに一際大声を張り上げる。

「そりゃ車停めるのに、そんな上なんか見てないからっ…けど屋上からに決まってますよ!だってホラっ……」

そう言って指差した運転手の手の動きを追って僕は文連ハウスを見上げた。

こちらの駐車場側にも窓が並んでいるが、それらは表側とは違いせいぜい五十センチ四方の小さな窓だ。しかもレバーを掴んで外に押し開けるタイプのモノで最大に開いても九十度、人間が出入りするのは相当に無理がある。と言うのも部室が並んでいるのは表側だけで、こちらの駐車場側は廊下に光を入れて換気をする為の窓が壁に並んでいるだけなのだ。だからあの『ボオンッ』という衝撃音が聴こえた時も、屋内の皆は部室のある表側に顔を出していたのである。そういう訳で駐車場側には、屋上から以外にワゴン車の屋根に墜ちるルートは無い。

だがそれは警部補も分かっていた様で、運転手を「まあまあ」と宥めて苦笑いをする。

「私が訊きたかったのはね、屋上に他に人影は無かったかという事だよ」

僕はハッとする。誰かに突き落とされた可能性もあるのか──

しかし運転手の学生は誰も見なかったと応え、沼警部補はメモを取っていた森野巡査に頷いた。

そこで次に話を訊かれたのは、屋上に上がった五人の男子学生達だった。二階や三階、四階の別々の部に所属する彼らは皆、騒ぎを聞いて部室を飛び出すと一旦廊下の窓から駐車場を見下ろし、車上の沙苗を視認したと言う。そして全員階段で下りようとしたが、二階の踊り場まで来たところで外から来た生物部員が裏口に駆け抜けていくのが見えて、そちらは任せて屋上に向かったのだ。彼らは回り階段を駆け上がり、最後の踊り場にある鉄の扉を外開きに開けて屋上に飛び出した。

「その時屋上には誰もいなかった?」

沼警部補の質問に五人の学生は顔を見合わせるが、やがて皆首を振った。

そして五人が屋上のワゴン車の真上の位置に向かって目に入ったのが、鉄柵の前にポツンと片方だけ置かれた靴だった。それは茶色い女物のローファーで、まさに沙苗のトートバッグから落ちたもう片方と対になるモノだったのだ。

「だからここから自分で飛び降りたんだって思って……」

「なるほど…」

最後に沼警部補は僕と生物部の方に振り向いた。

「君達は建物の表側にいたのだね?それで大きな音がした後、『墜ちた』って声が裏手から聴こえてきた。」

「ハイ、僕達は池の側にいました」

「僕はその近くの林に…」

生物部の男子部員に続いてそう言った僕だが、何故林にいたのか訊かれたらどうしようかと内心ドキドキしていた。しかし警部補はそこら辺には全く興味が無かった様で、スルーして続ける。

「君達も屋上や、あるいは駐車場で誰か見なかった?」

生物部の全員が頷く。僕は後から行っているので応えられないが、あの時彼らは僕と同じ様に文連ハウスを突っ切り、一人だけ建物の外を右から回って駐車場に向かった。つまり駐車場から誰か来ればどちらかのルートで出遭うはずだが、全員誰も見なかったと言う。勿論駐車場に誰かいたとしても屋上からの転落に関わるのは難しいが、墜ちる瞬間を見ていた可能性はある。

沼警部補が駐車場の向こう─文連ハウスの北側に目をやる。文連ハウスの東側はフェンスで仕切られている運動場だが、北側はテニスコートだ。今は無人のコートもやはり高いフェンスに囲まれていた。

そのフェンスとフェンスの間がワゴン車が入ってきた道路になっていて、そこを進むとキャンパスの北門から市街地に出る。もし駐車場に目撃者がいてこの場から逃げたのなら、数メートルのフェンスを乗り越えるか、見通しの良い道路を走っていくしかない。しかし僕達が駆け付けるまでのそんな短時間で、誰の目にも触れずに逃げられるだろうか?

いや、そもそもただの目撃者なら逃げる必要もない。やはりここには誰もいなかったのだ。屋上にも駐車場にも、誰も──

沙苗は、独りで墜ちたのだ。

ひと通り話を聞き終わった沼警部補は若干不満げな顔をしつつ、何度か頷いて呟いた。

「まあ、自殺だな…」

やはりそうなのか…僕は今朝の彼女の昏い目を思い出す。よく考えたら沙苗が入ったニ号棟はそのまま中を通って裏口から出れば、文連ハウスへの近道だ。今朝キャンパスに着いた時から覚悟を決めていたのかもしれない。希望を抱いて入学した大学で、誰にも気付かれずに俯いたまま一ヶ月を過ごしていたのだ。どんなに目標を持っていても、心が折れてしまったのかもしれない。その気持ちは僕なら分かってあげられたかもしれないのに…。

今日屋上から墜ちるのは僕だったかもしれないのに……

─何故本当にあの時、声をかけなかったんだ!

ズキズキと心臓むねの疼きが強くなっていく。僕がギュッと目を閉じて俯いた、その時──

「どうかなあ〜?」

刑事も学生もその場にいた全員が、その声のした方向を一斉に見る。ある者は目を丸くして、ある者は怪訝そうに─彼らの視線は全て、僕に向いていた。

「今喋ったのは君か…?」

沼警部補が不審げにそう言ったのも無理はない。確かに位置的には僕の言葉だと思うのが自然だが、別の点ではあまりにも不自然だった。

何せそれは、可愛らしい少女の声だったのだから。

勿論、肩に掛けたリュックの中のどーるの声である。

「あ、いえ、ハイっ…ゲホ、ゴホッ…ちょっと風邪で喉をやられててっ……」

焦った僕は咳き込んでから、妙に高いトーンの声を無理やり出して誤魔化す。呆れた様な男子学生や、少し怯えて体を引く女子学生の視線が痛い。しかし更に窮地は続く。

「靴を揃えて飛び降り自殺ってよく聞くけどさ、何で片方だけ屋上に置いたんだろう?

それでもう片方はバッグの中に仕舞ってるって、変ですよねえ〜?」

僕と警部補のやり取りから一応気を遣ったのか、どーるはわざと声を低くして口調も男っぽく喋った。それでもせいぜい小学生の男の子にしか聴こえないのだが…やむなく僕も俯いて口をモゴモゴと動かし、自分が喋っている様に見せかけた。人形が喋り人間が口パクという····である。怪しさ満点なのだが、沼警部補はどーるの話の内容の方が引っ掛かった様だ。

「靴の件は確かに私も気になったが…」

「屋上やバッグの中とかに遺書はありました?スマホからメール送ったとか?」

「遺書は無かったから今スマホを調べて…あ、いや……」

警部補はつい口を滑らせたという様に語尾を濁す。本来捜査情報を迂闊には話せないのだろう。しかし聞きたかった答が聞けたどーるは畳み掛ける。

「じゃあ自殺と決めつけるのはまだ早い。誰かがあのコを突き落として、それを自殺に見せかける為に屋上に靴を置いたかもしれないでしょ?その時、靴が片方バッグに入ってるのに気付かなくて──」

「ちょっと待ちなさい、どういう事だ?つまりその時被害者ガイシャは、靴を片方だけ履いてなかったと言うのか?」

どーるの勢いに釣られて警部補も『被害者ガイシャ』と言ってしまっているが、周りの皆も顔を見合わせる。確かに考えてみればおかしいのだ。自殺にせよ他殺にせよ、靴を片方履かない状況とは…?

だがその疑問にどーるがあっさりと答えた。

「だってあのコ、朝学校に来た時からずっと足痛そうに引きずってたもん。

みんなも見たでしょ?あのコの右足、腫れて内出血して…屋上から墜ちてあんなすぐに全体が紫色にならないよ。あれは最近捻挫とかでもして傷めたとこが、今日になって酷くなったんじゃないかな?それで何とか学校には来たけど、我慢出来なくなって途中で片方だけ靴脱いだんだよ〜」

その場の全員があっと言う顔になる。どーるの言う通り、沙苗の右足のくるぶしの下は腫れて、広範囲に紫色に変色していた。僕も深く考えずに転落時の怪我だと思い込んでいたが、確かに受傷直後にあんなに急速に内出血の範囲は広がらないのではないか?

実際に後で調べたところ捻挫や打撲で手足を傷めても、その部位をすぐに氷で冷やしたり包帯で圧迫したり等の応急処置をすれば、腫れや内出血を抑える事が出来る。それが放置されてしまうと、どんどん症状が酷くなって治りも遅くなるのだ。

今朝、どーるは『俯いていたから僕の顔が見えた』と言った。その時、やはり俯いて足を引きずっていた沙苗の顔も見えていたのだ。しかも僕がどーるに声をかけられる直前、沙苗も気配を感じたのかあの花壇を見ていたではないか。だから沙苗の顔をどーるがしっかり覚えていても不思議はない。

自分の迂闊さを呪う。どーるが見た沙苗の重い足取りを僕も見ていたのだ。なのに勝手に、僕同様の気分的なモノだと決め付けていた。

しかしどーるには─··········の彼女には、沙苗の足元の異変が正確に見えていた──

(あれ、待てよ?)そこで僕はふと気付く。

確かにどーるは沙苗の顔を覚えていた。けれど今その小さな目撃者はリュックの中にいる。その彼女がどうして転落したのが今朝見た沙苗である事や、その裸足の足元が紫色に腫れているのを確認できているのか…?

しかしその引っ掛かりが解消される前に、沼警部補が新たな疑問を口にする。

「じゃああの被害者ガイシャ…女子学生は、その後ずっと右足は裸足だったのか?それも変な話じゃないか?この建物は屋内でも土足なんだろ?

それとも松葉杖でも使ってたのか?そんな物、屋上にも駐車場にも落ちてなかったぞ!」

全員が僕の顔を見るが、そう言われても困る。さっきから喋っているのは僕じゃない。僕は曖昧に笑いながらどーるが何か言うのを待っていたが、何の応答も無い。たぶん、今の疑問にはどーるも解答を持っていないのだ。何て無責任な人形だ…。

僕は皆の刺さる様な視線に耐えかねて、鑑識作業をしているワゴン車に目線を逸らす。リア部分にハイブリッド車を示すマークがある。そのまま運転席の脇に目を遣ると、駐車場の黒いアスファルトの上に小さな血溜まりがあるのが見えた。沙苗の左手から滴り落ちたモノだ。

不意に胸がギュウッと締め付けられる。意識は戻っただろうか…もしあれが自殺じゃないのなら、足を傷めて動けない彼女を突き落とすなんて絶対に、絶対に許せない──

「なるほどおっ!

まさに橈骨と尺骨、反転する常識だねえ〜!」

不意に響いた大声に、全員がビクッと背筋を伸ばす。刑事も学生達も何事かと目を丸くしてこちらを見ているが、僕も固まって肩越しに自分の真後ろに目線を送った。

いつの間にか背後に破一郎先輩が、偉そうに腕組みをして立っている。

「一見正しいと思われる事が実はねじれていたのだな。

沙苗嬢は飛び降りる為に靴を脱いだのではない。

靴を脱いでいる時に飛び降りる羽目になったのだ!」

禅問答の様な言葉にその場の全員が呆気に取られる。

「…な、何だ君は、急に……?」

ようやく言葉を振り絞った沼警部補が怪訝そうにこちらを指差すが、破一郎先輩は構わずに続けた。

「ところで、屋上に上がってた君達は何部なのかな?」

「は?」

全く脈絡の無いその質問に、警部補の眉が吊り上がる。急に訊かれた五人の学生も唖然としているが、先輩は「ん?」と言った感じで一番左端の学生を顎で指す。不遜極まりない態度だが、気圧されたのか学生達は順に答えていった。

「鉄道研究会だけど…?」

「SF研…」

「ボランティア部です」

「…ボクは茶道部」

「い、居酒屋探訪倶楽部……」

「む、最後のとこ入りたいな…いやまあ、それはともかく──」

破一郎先輩は居酒屋探訪倶楽部の学生に熱視線を送りつつ、スッと歩み出て、四人目の学生の前に立つ。それは先輩ほどではないが高身長でスマート、肩まである髪を栗色に染めた、色白で細面のなかなかのイケメンだった。青と黒のストライプシャツとグレーのテーパードパンツもお洒落で(高校からのセレブ組だな)と僕が考えていると、そのイケメン茶道部員の両肩を破一郎先輩が両手で掴む。

「な、何だよっ…?」

動揺する茶道部員だが、先輩は肩を掴んだままニヤリと笑って言った。

「では刑事さん、私が彼を捕まえてるので、茶道部の部室を調べてください。

そこが····でしょうから」

「は、犯行現場だとっ?」

先輩の行動を呆然と見ていた沼警部補はその言葉に身を乗り出し、森野巡査も顔色を変える。周りの学生達は一斉に身を引いて、先輩と肩を掴まれた茶道部員から距離を取った。

茶道部員は怒りで真っ赤な顔になっている。

「な、何を言ってんだお前っ…離せっ!」

しかし破一郎先輩は涼しい顔で言った。

「まあまあ、君があのコ─沙苗嬢を襲ったんだろう?頭でも殴って気絶させて、その傷を誤魔化す為にも屋上に運んで突き落とそうと思ったんじゃないか?

それで自殺に見せかけるのに靴を並べようと考えて、でも片方しか見当たらなかったので、仕方無くそれだけを持っていって置いた─まさか、もう片方が彼女が抱えていたバッグの中にあるとは思いも寄らずにね」

「なっ…ふざけんなっ!何の証拠があってっ……」

「だから証拠は、犯行現場の部室に残ってると思うよ。

茶道部の部室は······だろ?

入る時には靴を脱ぐからねえ」

先輩の手を振り払おうとしていた茶道部員が動きを止める。沼警部補も目を見開いて先輩の次の言葉を待った。

「先に沙苗嬢が部室にいて、君は後から来たんじゃないか?それで君は襲った後、入口に沙苗嬢が脱いだ靴が片方しかなくてさぞ焦っただろうな。でも他にも別の靴があって混ざってたのかもしれないが、そこにちゃんと彼女が右足に履いてきたモノがあったんだ。」

「は、履いてきたモノ…?」

茶道部員の声は上ずっている。破一郎先輩はスッと目を細めて続けた。

「ところで、ビッグフットも有名なUMAだが──」

「は、はあっ?」

また突然遥か彼方に吹き飛んだ話の展開に、茶道部員は甲高い声で叫ぶ。当然他の全員の目も点だ。

「身長2メートル体重300キロ前後の、雪男の正体だとか類人猿の生き残りとも言われる毛むくじゃらの巨人で、サスクワッチやイエティと同一視される事もある。

1900年代初頭から目撃談があるが、有名なのは1967年に撮影された〈パターソン・ギムリン・フィルム〉だな。友人同士のロジャー・パターソンとロバート・ギムリンという二人の男が、カリフォルニアの山中で『歩きながら振り向くビッグフット』を8ミリカメラでカラー撮影する事に成功したという歴史的快挙だ!ワクワクする映像だよ、観た事あるだろう?何、無い?…まあその真偽を疑う声もあるが……ホントに無い?

…まあいい、それ以外でも各地で目撃が相次ぎ、特にその大きさが50センチ近いという巨大な足跡が多く見付かっているんだ。今回も足跡があったら君にも分かったかもしれん」

「な、何がっ…」

「だから─沙苗嬢が茶道部の部室に来た時には、··········だったって事がだよ」

「右足だけビッグフットおっ?」

先輩は、三日月の様に嗤った。

「足が痛くて文連ハウスの入口で、········を借りたからさ」

「ああっ、なるほどーっ!」

先輩の言葉に今まで黙っていたどーるが大声で感心し、僕は慌ててズレまくった口パクをする。しかしその声だけ先に聴こえる高難度の逆腹話術よりも、破一郎先輩の言った内容に生物部の部員が色めき立った。

「そ、そうだよっ、さっきサンダルが片方無くて、だから俺は外から回ってっ…!」

鉄道研究会の部員も叫ぶ。

「確かに文連ハウスの幾つかの部室は特別に和室で、茶道部もそうだっ…それに四階です!そこまで階段で上がるのに足が痛けりゃあ、楽なサンダル借りるってアリなんじゃっ……」

騒然とする学生達に囲まれて茶道部のイケメンは絶句していたが、また叫び出す。

「で、でもボクはお前らと一緒に屋上に駆け付けたんだぞっ?一緒にあの女の靴見付けたじゃないか!そうだろ?」

そうだ、五人の学生が屋上に上がった時、確かにそこには誰もいなかったと証言した──

しかし破一郎先輩は他の四人に笑いかける。

「そんな寺の門みたいな大きな扉じゃあるまいし、五人揃って『いっせーのせ』で屋上の扉を開けたのかい?誰か一人が開けて、続けてワーッと入ったんじゃないの?」

「それは…確かに…」

四人は顔を見合わせる。

「外開きの扉なんだろ?沙苗嬢を突き落とした後その扉の向こうに隠れてた犯人が、さも今一緒に入ってきた様に飛び出して君達にシレッと混ざったって、皆テンパってるから気付かないんじゃないかねえ?

まあ沙苗嬢が車の上に墜ちてすぐに周りが騒ぎ出さなければ、屋上から逃げる隙もあったんだろうが……」

その場の全員が黙って茶道部員を見つめる。

「か、か、勝手な事ばっか、言いやがってっ……」

明らかに青褪めた茶道部員が身を捩って逃げようとするが、先輩は一喝した。

「観念したまえ!

君は最初、屋上から駐車場を見た時に車がいなかったので、その後下を確認しなかったのではないか?

そして自分の姿を隠しながら沙苗嬢を墜とそうとしている間に、絶妙なタイミングでこのワゴン車が入ってきた。しかもエンジン音の聴こえないハイブリッド車だった為に、君は気付かずに墜としてしまったのだ。

それがちょうど車の真上だったのだから、悪い事は出来ないなあ!」

破一郎先輩の言っている事は全て推論に過ぎない。

しかし茶道部のイケメンの顔は、真っ青を通り越して真っ白になっていた。

沼警部補とアイコンタクトを交わした森野巡査が、イケメンのすぐ背後に立つ。それを見た破一郎先輩は肩に掛けていた手を離した。森野巡査は背は先輩より低いが、角刈りで首も太くガッチリとしたいかにも柔道の達人といった体格で、···を取り押さえるには適任だろう。

そして更に警部補の指示で、数人の警官と鑑識官が文連ハウスの中に駆け込んでいく。

やがて戻ってきた一人の警官の耳打ちを受けて、沼警部補は茶道部員に向かって言った。

「ちょっと話を聞かせてもらってもいいかな…?」

本当に、茶道部の部室から生物部のサンダルの片方が見付かったのか──

「い、いや、ボクは何も……」

茶道部のイケメンは尚も半笑いで言い訳をしようとするが、その時四階の窓の一つから鑑識官が顔を出して叫んだ。

「沼さん、畳の上に血痕があります!」

刹那、弾かれた様に逃げようとする茶道部員だったが、森野巡査が羽交い締めにする。途端に目を三角にして叫び出すイケメン。

「ボ、ボクが悪いんじゃないっ…アイツだっ……あの女が悪いんだっ!

あの女はストーカーなんだぞ!

盗撮やら無言電話やら散々っ…それでボクのプライベートをネタに脅迫までしてきやがって!」

(ストーカー?脅迫?結月さんが?)

僕はその犯人の言葉に、ショックを受けて立ち竦んでいた。茶道部員はヒステリックに続ける。

「去年の冬からなんだっ…毎日毎日朝から晩まで、もう我慢の限界だった!」

(そんな…まさか……)

呆然と聞いていた僕だったが、ハッと気付く。

「嘘言うな!結月さんは今年入学するまでは新潟にいたんだ!大体去年の冬なんて受験勉強追い込みで一番忙しい時じゃないか、朝から晩までストーカーしてる暇なんかないよっ…!」

思わず叫んだ僕の言葉に一瞬怯んだ茶道部員だが、すぐに一段と声を荒らげる。

「うっ、嘘じゃねえっ!

あの女は、あの女は確かにっ……!」

「暴れるなっ…公務執行妨害で逮捕する!

続きは署でゆっくり聞かせてもらうからな!」

沼警部補に手錠を掛けられた茶道部員はそれでもまだ喚いていたが、警官に囲まれてパトカーに連れられていった。

僕達は黙ってそれを見送っていたが、ふと沼警部補が振り向いた。

「君…貴重な意見をありがとう」

「いえ…」

ニヤニヤと頷くのみの破一郎先輩に代わって、僕は慌てて頭を下げた。警部補は曖昧に頷き、周りの学生達も何とも言えない表情で僕達を見ているが、まあ片や傲岸不遜な奇人、片や女の子の声で喋る変人なのだからやむを得まい。いたたまれなくなった僕はその場を早く逃げ去りたかったが、ハッと気付いて警部補を呼び止めた。

「すみませんっ…結月沙苗さんはどこの病院に運ばれたんですか?」

………………………………………

……カツン…カツン……

どこかで誰かの靴音が響く。

沙苗が入院したのは小田急線の隣の駅近くにある中規模の総合病院だったが、意識不明で集中治療室に入っている現状では勿論面会など出来ない。それでも僕が学生証を見せて大学の友人であると名乗ると、担当の女性看護師が容態に変化があったら報せると言ってくれて、とりあえずロビーで待たせてもらえる事になった。

しばらく待っているうちに午前の診療時間も終わり、ロビーにいるのは僕達だけとなっていた。一般の待合室からは離れて、リノリウムの廊下に置かれた長椅子の端に座って呆然としていると、膝の上のリュックから声がした。

「久作…元気出しなよ」

勿論どーるだ。僕は返事をしようとリュックを見て、思いきり眉をひそめた。

リュックサックの背面に、コンセントの挿し込み口の様な縦長の細い穴が二つ並んだ菱形の革が縫い付けてある。通称〈ブタ鼻〉と呼ばれるこの革を飾りのワッペンだと思っている人も多いが、実は登山用のピッケルを固定する為のピッケルホルダーだ。この二つの穴にピッケルの柄に付けた紐やストラップを通して固定するのだが、勿論、穴が開いているのは表面の革の部分だけで、防水の為にもリュック本体には穴は開いていない─普通は。

しかし今その〈ブタ鼻〉から、中にいるどーるの碧い瞳がキラリと光るのが見えたのだ。

慌てて顔を近付けると、ピッケルホルダーの裏が破れて中が見えている。リュックを開けて確認したら、布地がザクザクに切られてゴルフボール大の穴が開いていた。

「お、おい、これ、キミがやったのっ?」

「うん、お弁当のフォークで♪」

悪びれずに答えるどーるに、僕は頭を抱えた。確かに安物だが入学の時に買ったお気に入りのリュックだったのに…しかしこれで謎が解けた。どーるはこの穴から沙苗の顔や足を見て確認していたのだ。

…だがそんな風にちゃんと沙苗を見ていたどーると比べて、僕はどうだ?

さっき捕まった茶道部の部員─経済学部の三年生で麻浦あさうらと言う名前だそうだが、アイツは『沙苗はストーカーだ』と言った。僕はまさかと思いつつ、それを完全に否定する事が出来ない。

その場の学生達に訊いたらイケメン麻浦は確かに女癖が悪いという評判で、茶道部の部室にも何人も女子学生を連れ込んだ噂があると言う。そもそも茶の湯に興味は無く、和室で正座する女の子の膝頭やヒップラインを見るのが好きで茶道部に入った筋金入りらしい。だから沙苗もその毒牙に掛かりそうになり、抵抗した末の揉み合いで怪我を負わされ、それを誤魔化す為に屋上から墜とされた─のかもしれない。

しかし、麻浦の言う事が本当で、待ち伏せしたストーカーが返り討ちに遭ったのかもしれない…『去年の冬から』という麻浦の話は辻褄が合わないし自己保身の為の嘘としか思えないのだが、それも現段階では真実は分からないのだ。僕には沙苗の事が何も見えていないのだから…。

「…何が共感シンパシーだ……僕は自分の都合で彼女のイメージを決め付けてただけだ。勝手に自分と重ねて、僕の他にも孤独な新入生がいるんだと思って…それで何となく安心してただけ──いや。

きっと僕は『自分は彼女よりはマシ』だと思ってたんだ!

だから今朝だって無意識に『僕より重い足取りで歩いてる』って決め付けて、ホントに足を傷めてるのに気付いてあげられなかったんだ。彼女の痛みを分かってあげられなかったっ。分かっていたら、助けられたかもしれないのにっ……」

沙苗が本当に僕と同じ様に目標を持って麗青学苑に入ってきて、でもその心が孤独に苛まれてストーカーになるほどに歪んでしまったとしたら、やっぱりそれは僕のせいではないのか…?両手で頭を抱えたまま、僕は固く目を閉じる。

190センチの破一郎先輩の様に遠くを見通す洞察力も無ければ、30センチのどーるの様に足元が見える観察力も無い。

僕には何も……

…カツン……

またどこかで靴音が聴こえた。

ふと、肘に冷たいモノが触れる。

「…あんた、いいヤツだね」

どーるがリュックの中から右手を伸ばして、僕の肘を掴んでいた。つぶらな瞳でこちらをジッと見上げている。

「確かに気になる女の子に声かけよう〜って思ってるだけで一ヶ月経ってるのは、重症の陰キャでコミュ障だけどさあ」

慰めてくれるのかと思いきや『いいヤツ』からのその落としっぷりは酷い─そうガックリしていたら、彼女はウィンクして言った。

「でも他人ひとの痛みが分からないって悩めるの、良いと思う。

あたし、あんた好きだよ」

「え……」

「そうだな…『他人の靴など見てるヤツはいない』─映画の台詞にもあったさ」

それまで黙って長椅子の横に立っていた破一郎先輩が不意に呟いた。確かに僕は沙苗の靴─足元が見えていなかったが…振り返ってこちらを見下ろす先輩の目が何だか優しい。先輩も僕を慰めてくれるのか…?

「『ショーシャンクの空に』という刑務所が舞台のスティーヴン・キング原作の名作だが、そうやって靴を見てなかった悪役が酷い目に遭うオチだったよ、アハハ!」

一瞬でも期待した僕が馬鹿だった。

「ところで、同じ『共感』と訳される言葉は〈シンパシー〉以外にもあってねえ──」

先輩の話がまた飛ぶ。

「〈エンパシー〉と言うのだがね。

シンパシーは境遇や立場等で自分と共通項のある相手に対して『ああ分かる!』とか『自分もそう!』とか、同意や親しみを持って感情的に共感するモノだろ?まあ『同情』と言い換えてもいい。

それに対してエンパシーは、自分とは全く違う性格・趣味嗜好を持つ共感できない相手に対しても、『その人の立場なら自分はどうするだろう?』と想像してシミュレーションしてみる····の事だ。

このエンパシーを『その人の靴を履いてみる』と端的に説明した人がいたなあ」

「その人の靴を履く……」

片方だけ落ちていた沙苗の靴が目に浮かぶ。

僕がただ自分を慰める為の同情ではなく、彼女の靴を履いてあげられていたら──

「そうだ、誰かの謎を知りたかったら行動を起こさねば──

ウジウジ悩んでるだけなのは論外、スマホでググったって何でも答が出てくる訳じゃないのだぞ、間嶋久作!」

「良い事言うじゃん、破一郎!」

高らかに言い放った破一郎先輩を、どーるが僕越しに頼もしげに見上げる。沙苗の件を解決した事で、見る目が変わったのだろうか。偶々変な蘊蓄と頭の回路が繋がっただけの様な気が凄くするのだが……先輩は例のチェシャ猫の顔でニマ〜ッと笑い返した。

「…うん、あたし、あんた達信じる。

久作、破一郎─あたしの謎解き、よろしくお願いします!」

どーるはそう言って、ニッコリと笑った。

その時、廊下の向こうからパタパタと足音が聴こえてきた。見れば僕らに対応してくれた看護師が早足でやってくる。彼女は明るい声で言った。

「結月さんの意識、戻りましたよ!」

途端に僕はスウッと胸が楽になり、肩の力が抜けていく。

勿論、意識が戻ったと言ってもすぐには面会も出来ないだろう。でもいずれ必ずお見舞いに来よう。まだ間に合うのなら、取り返しが付くのなら──

沙苗と話して、彼女の靴を履いてみよう。

彼女の為に。僕の為に。

リュックの中を見ると、笑顔の人形が親指を立てていた。そうだ、まずは···だ。

(人形の靴じゃ小っちゃすぎて履くの大変そうだけどな…)

僕も、どーるに向かって微笑んだ。

(第二話に続く)

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